あたしとお前といつかのあたし

精神科のロビーで二度見される女

生きる人間の我儘へ

母方の祖父が死んだ。

三連休が明けた平日の2日間を家族旅行に使う優雅さを全身に浴びながら、1人だけ起きれず汗をかくように急いで温泉に浸かった後、両親から告げられた

何も心が動かない自分を、少し冷たく思いながらも「自分らしい」と言い訳をして、朝食会場ではいつも通り大量のフルーツを頬張った

 

資本主義と民主主義を謳った共産主義のようにも見える、歪な国の死の概念はあたしに合わない

仏教思想とも分かち合えないあたしの思想と向き合うことをしてこなかったが、今回の祖父の死によって向き合う時が来たようだった

先月に祖父が倒れてからと言うものの、母に対する祖母や叔父たちの嫌がらせは酷いものだった

あたしは母からの直接的な打診がない限り、葬儀には不参加の意向だった

 

旅行帰りの家族が全員リビングに揃っているものの、あたしは父とチャットで話していた

通夜、火葬、告別式への参加意向を問われ、まずは決めていた「母からの直接の打診がない限りは不参加」という意向を伝える

 

"あたし本人の意思だけで言えば行きたくない

しかしそれによってママが嫌な思いをする可能性があることを考慮すると、あたしの行きたくないはわがままかなとも思う"

 

そう、わがままはエゴだ


"故人に恨みはないので頑なに拒む必要もないが、死んだ以上興味もないとも言える"

 

完全に言い過ぎである

だが、親族なんだから興味くらい持ってやれとも思う自分は「一応」社会に溶け込むフリをしている虚像で、あたしではない

 

しかし、先月の嫌がらせを受けて、母1人で参加となるくらいなら行こうとも思っていた

会話が進むにつれ、文字にすると狂気的とも言えるような自分の思想が並んでいく

 

"でもそりゃあ暑いし家でゆっくりしてたいし、生きてる人に会いに行くならいいけど、あたしには死んだ人を何時間もかけて弔うみたいな感覚の価値がわかんないんだよ"

 

父とのチャットからそのまま引用した上の3つの文章は、血の繋がっている祖父が死んだとは思えないと言われるかもしれない

そのあとあたしの部屋で父と2人で会話をした時に「葬式は生きている遺族のエゴだ」とまで言った

 

そう、エゴはわがままだ

 

自分の思想の強さにうんざりはするが、これがあたしを構成する脳内の一部の言語化であることには変わりない

ひとえに冠婚葬祭などと言うが、結婚式がエゴだとして、それは新郎新婦のエゴだろう

主役の彼らは生きていて、生きてる以上エゴが生まれることなどよくある話だ

しかし葬式は主役が死んでいるのだ

そんなもの、遺された生きている人間たちのエゴ以外のなにものでもない

もとより、あたしは霊感を持たない人間なので、死人の霊が葬式に現れて最期に会話ができるみたいなことも理解できない

 

正直、このことをここに書けば、少しは気持ちが変わるかもしれないと期待した部分もあった

現実は自分の思いが固まっていくだけだった

これからもあたしは葬式を生きている人間のエゴだと言い張る無情な女として過ごしていくのだろう

 

そう、これがあたしの思想でもあり、立派なエゴだ

 

エゴという言葉を"わがまま"の意でここまで使ってきたつもりだが、"自我"の意味で捉えることだってできるのだ

自我である限り、他人に強要する必要もないので、無論参加する人たちに文句はない

 

でも、あたしの自我だって素敵でしょうよ

 

あなたのエゴを否定しない代わりに、あたしのエゴを否定しないでほしいと願う、

本日最大のエゴを添えて。