あたしとお前といつかのあたし

精神科のロビーで二度見される女

幸せの定義

表題を問われる度に、あたしは長らく「幸せか、と考えることをせずとも幸せだと感じること」だと答えているし、本当にそう考えて生きてきた

そして今日、それが間違っていたことに気がついてしまった 何とも皮肉な話だが、気がつかなければ"幸せ"だったのかもしれない

 

小さな事から1週間ほど家を出た

女だったことが幸いしたのか、泊まる場所には困らなかった

別に独りぼっちで暇を潰さなくてはならない時間すらもなかった

 

この家にいたら幸せになれない、逃げ出さなくてはいけないという焦燥感のもと家を出たものの、今日まで過ごした1週間を振り返ってはみても、あたしが今まで思い続けてきた定義による幸せを感じられることは1つとしてなかった

 

だから家に戻ろうと思った

それが自分にとって幸せどころか、より自分を苦しめる選択になることは覚悟しているけれど、幸せを探す旅に出た限り、いつかは帰らなくてはいけない

帰る場所があるからこその"旅"なのだと、あたしの大好きな小説に書いてあった

 

きっとあたしに出ていかれた親は、怒らない

ひたすらに謝られるんだ

そして何度も言われた「産んでしまってごめんなさい」「産んだ私が悪かった」と言われたことを思い出してつらくなる

その覚悟ができているかと聞かれれば、無論できてはいないけれど、前述の通り旅はいつか終わるものでなくてはならないし、この1週間で自分が信じてきた"幸せの定義"が間違っていたことに気づけたのだから、きっと無駄な旅ではなかったのであろう

 

ただ、最後の夜に好きな人と過ごしている今は「特に何も考えずとも"幸せ"だなぁ」と思うんだ

 

何が間違っていて、この旅にどんな意味があって、これからどのように生きていけば"正しく"そして"幸せ"に生きられるのか

あたしを産み落として育てた親に、失敗作だと吐き捨てられたあたしには、到底わからない