あたしとお前といつかのあたし

精神科のロビーで二度見される女

死への憧憬、生への失望

確かにこの社会の歯車を回しているのは多くの労働者階級の人々で、だからこそ彼らは"社会人"と呼ばれているのだろうけれど、別に何もせずただ生きているだけの人間が世の中に存在していたところで何か問題が起こるわけではない

無理やり課題を見つけてこなすことに苦労して生きる意味を見失うくらいならば、全てを放り投げて笑っていたほうが幸せなのかもわからない

 

酒に酔った母親が半分無意識にいる中で、そこにいるあたしを認知してごめんねと言った

きっと深い意味はないのだろうけれど、少なからず「産んでごめんね」と言われた記憶がフラッシュバックする

その記憶はまるで他人事のようで、もはや思い出して涙が出ることもない

どうして産まれてきてしまったんだ、なぜ感情があるのか、あたしなんていらないと必死で自分を傷つけて、精一杯苦しみながら生きることで罪を償っていたつもりだった時期だった

部屋に近づいてくる母親に気づき、切り刻まれた赤い腕と脚を適当に布で隠したあたしにママは土下座をしたね

無論そんなことをされたのは17年生きて初めてのことだったし、そのときは喧嘩ばかりしていたから、その何かが引っかかって謝りに来たのだと察していた

そんなことなら1人にしてくれたほうがいいのにとぼんやり考えていたときに、床に頭を擦り付けて放った言葉がそれだった

だったら、最初から、あたしのことなんて作ってくれなくてよかったよ

当時の感情を鮮明に思い出すことはできなくても、トラウマは状況として植え付けられるものらしい

この文章を打ち出したときは、当時の画が蘇ってくるほどのことだとは正直思っていなかった

書き始めた我ながら、もうこの話は充分だ

 

吐き気がする

自殺は死への逃避ではなく、生への絶望だ

正確に言えばどちらでもあるのだが、死に憧れを抱くものはいない

時間が経てばいずれ訪れるものであり、それがいつだかはわからなくても待っていれば、他の何よりも確実に手に入る未来である

ああ、別にそんなこともどうでもいいんだけど

 

心に空いてしまった穴を埋める手段は、また別の場所に穴を開けること以外にないのだと思う

可視化できないものだから断言はできないが、あくまで感覚として、別の場所に穴を開けたところで元の穴が塞がるわけではない

それでもより深い傷を負うことで苦しみのベクトルを分散させる

そんなことをしてでしか生きることを続けられないのであれば、確かにそこに価値などない気もする 生への絶望そして失望である

 

親愛なる両親へ、産まれてきてごめんね