あたしとお前といつかのあたし

精神科のロビーで二度見される女

救いの言語

救われている。

なにに救われているかと言われれば、きっと小さなことなのだろうけれど、最終的に人間を救うのは死であり、それに至るまでにさまざまなことが人生を救うのだろう

 

例えば人生に迷った時に、自分の状況よりも酷い主人公を作り上げ小説を書くというあたしの行動は、立派に逃避のうちの一つである。この前は恋人を失い、会社をクビになり、久しぶりに父親に会ったら自分はレイプで生まれた子供だと言うことを知って絶望する男の話を書いた。どんだけつらいとそんなストーリーが生まれるんだよってな。おかげさまでなぜそこまでつらかったのかは忘れたし、世に出るわけでもない作品が未完成のまま増えていく自分のメモを見つめ直すと、もったいなくも愛おしい気分に浸ったりする

 

過去は変えられないが未来は変わると一般的に広がる現在の生き方への価値観に対して、今未来を変えることはできないが、過去の価値を自分の中で変えることはできる、と言っていた人がいる。(キングコング西野亮廣 近畿大学卒業式特別スピーチより) ずいぶんと斬新かつ正しい話だと思った。

他人からの信頼を失った上に職を失った今の自分も、そういえばもう過去である。難しく考えなくても1年後のあたしは今の自分なんて忘れている。

そういえばおととい親友と「今話してることも、もはやこうして今過ごしていることも1年後にはお互い忘れているんだろうな」と話した後に、「でも忘れるんだろうなと話したことは覚えてるよな」と話していた。

確かに、思い出話を中心に過去にベクトルを向けて話していたことは覚えているけれど、鮮明に覚えているのは「忘れるだろうなって話したことは覚えてるよな」と話したことである。

この親友は過去に元彼としてあたしのブログにも登場している人物だが、今では完全に親友であり男女の関係は一切ない。現に今も彼の部屋で目の前の英語に2人で向き合いながら粛粛と夜を明かしている。消しゴムの話になったときに、「俺は使わないんだよね、だって俺が書く文章に間違いはないから」と相当気色の悪い発言をしていたが、消しゴムを見た時に正直彼ならそう言うだろうと思ったし、本当に言ったから笑ってしまったくらいには気の合う仲だ。

てかここまで読んでおもしろいことあった?暇なの?まあいいけど

あたしからしたらこのブログをこの部屋から投稿したかっただけだよ

 

忘れてしまうことは仕方なくても過去は消えない。忘れられない不快だった過去を、不快だと憎むのではなく、貴重な経験として愛した方がいいのではないだろうか

と思っても愛せない過去の方が記憶に残るのは人間だ。個人的にだが、しばらく西野亮廣のこの言葉とは向き合っていかなければならないと思って過ごしている。

 

何気ない今日はいつか忘れてしまう日で、でも何かに救われていたりする

こうして日本語に救われているあたしは、今日も言語化することで少しの不快から逃げているのだ

逃げきれなかった時は、一緒に酒でも酌み交わそうじゃないか